末代念仏授手印と一枚起請文の邪義をめぐって
一枚起請文/wikipedia
研究の目的
通称『一枚起請文』には、本文の後に「添書」即ち「為証以両手印」以下「源空 花押」までが付されてある。その終のところに「滅後の邪義をふせがんが為めに所存を記し畢(おはんぬ)」とある。
また鎮西流祖聖光房弁長の書いた『末代念仏授手印』の裏書きに出てくる、三人の「ある人の云く」の内、二人目に、「ある人の云く、行門、観門、弘願門、この三門を立て、弘願門は往生を得、その行門の人は往生を得ず。弘願門の義を知らざるに依ってなり。(中略)已上三義これ邪義なり。恐し恐し(花押)。全く、これ法然上人の義に非ず。梵釈四王を以て証と仰ぎ奉る(花押)。三の義ともに学文をせざる無智の僧達の愚案なり。驕慢、驕慢なり。善導の御釈に相応せざるの義なり。(花押)(以下略)」と記されている。
今回、新出資料と西山深草派に伝承する確実な資料を用いて、「行門、観門、弘願」の三門は、実は元祖法然の晩年の教義であるにもかかわらず、聖光房弁長が証空の教義と推量した結果、後世『一枚起請文』に本来なかった「添書」が付加されたことを論ずる。
本 論
(一)、『一枚起請文』について
ここに取上げる『一枚起請文』とは、古来法然親筆と伝えられてきた黒谷金戒光明寺蔵、粟生光明寺蔵の「添書」が付された『一枚起請文』(*1)を指し、またその影響を受けたと考えられる一群の『一枚起請文』について述べるものである。
先ず『法然全集』(大橋俊雄著春秋社)第三巻、三三〇頁の一枚起請文補注(三行目以下)を紹介する。
(補註 三〇一)
黒谷金戒光明寺所蔵の『一枚起請文』には標題と「為証以両手印」以下の「添書」が付されている。しかし、文永十一年了恵が集録し、元亨元年開板した『和語灯録』には標題に『御誓言の書』とあり、また『九巻伝』巻七下および『四十八巻伝』巻四十五には『一枚消息』と標題を記しているものの添書はない。添書が付されたのは、室町中期のころからと見られている。
黒谷金戒光明寺蔵の『一枚起請文』には、法然の自筆と伝承する左のような「添書」が付されている。
(補註 三〇二)
為証以両手印
浄土宗ノ安心起行、此一紙ニ至極せり。源空ガ所存、此外ニ全ク別義を存ぜズ。
滅後ノ邪義ヲふせがんが為メニ、所存を記し畢。
建暦二年正月二十三日
以上、大橋俊雄著の『法然全集』の注釈を引用して、いわゆる『一枚起請文』の問題点を述べた。つまり『一枚起請文』になかった「添書」が室町中期頃に付加されたから、黒谷金戒光明寺蔵、粟生光明寺蔵の二本は法然の親筆ではない。なぜ「添書」が後世に付加されたのか、その訳を明らかにする必要がある。
(二)、『末代念仏授手印』(鎮西流祖聖光房弁長述)について
【一】資料の調査
平成九年十一月二十八~二十九日、鎮西流大本山善導寺を訪問し、文化財の『末代念仏授手印』全調査許可のお願いをし、民谷台下、国友俊雄執事長、教学部・石原義堂師の暖かいご協力のお陰で、『末代念仏授手印』の全撮影に成功した。更に、平成十年二月二、三、四日の三日間の博多市街・善導寺、佐賀市内・大覚寺、熊本市内・往生院、熊本県宇土市・西光院の『末代念仏授手印』の四本を調査撮影した。二回の調査によって、全部で九州の五本の調査を行うことができた。福岡県中間市の西山浄土宗阿弥陀寺住職・中山卓仁師の、病苦を押しての全面配車協力のもと、全ての写真撮影を無事に終えることが出来たのである。ただし、聖光房弁長の直筆本は発見できなかった。
今回の調査の成果として、熊本市内往生院の『末代念仏授手印』が最も信頼できる資料であることがわかった。その理由を次に述べる。
往生院本(聖護房伝承本)のみが、表本文は最初から最後まで美麗な書体で書かれ、授手印末尾の系図に、源空|弁阿|聖護(入阿)とある。この本が弁阿の直筆であるなら、手印があるはずである。その手印があるべきところが空白になっているので、この本は弁阿の本の写しである。ただし『昭和新訂末代念仏授手印』七頁末行の「考証」には、「聖護房本は初めより往生院に在りたるが、中途紛失、二百余年後慶長元亀の頃、他より求められて、往生院に還りたるが如し」とある
また証拠となる記事は、裏書きの序に表本文とは別筆の入阿によって、やや草書体で安貞二年十月二十五日、往生院において四十八日の別時念仏が営まれ、聖光房は三十日に渡られた、とあることによる。さらに入阿は「十一月四日に道場に入り念仏申す」と書き、続いて弁長が「末代の為に一文を作ったのが、『末代念仏授手印』である」と書き記している。入阿とは、聖光房弁長の愛弟子聖護房で、聖光の檀越・草野一族の出身である。彼は弁長の臨終迄看病した。
この序の続きに、別時念仏の出席者の席次が、北座、南座の順で書かれ、その後に「御手印本肥後国往生院留之」と早書きしてある(*2)。つまりこの本は、聖光房弁阿の御手印本の入阿による写本であったことを示しているのである。
【二】『末代念仏授手印』の成立背景
大本山善導寺前執事長故花田玄道師著『鎮西教学成立の歴史的背景』(平成八年十月一日発行)を見ると、聖光は元久元年(1204)四十三才で師法然の会下を辞して後、同年に、久留米市高良山の麓の厨寺(くりや寺、聖光院安養寺)で一千日の如法念仏を行ったとき途中、天台、真言僧の反対運動も起こったが、無事満行して一躍有名となった。
承久二年(1220)檀越草野永平が支援して、善導寺(前光明寺)を改築して大伽藍としたことで、善導寺は九州の本拠地となった。この頃の九州の情勢は、久留米の隣、太宰府が文化の中心であり、アジア及び世界に向けた、日本の玄関口でもあった。また鎮西地区で、最も早く仏教を受容したのは太宰府で、太宰府政庁の周辺には多くの寺院や寺院跡がある。中でも、天智天皇勅願の観世音寺は方三町の西国第一の大寺院で、金堂には丈六の阿弥陀仏像が安置され、日本三戒壇(奈良東大寺、上野薬師寺)の一つで、聖光もこの寺で十四歳のとき授戒している。
また九州、就中、太宰府は、延暦二十三年(804)入唐し、天台山国清寺で天台教学、大乗戒・禅・密教を学んだ最澄をはじめ、円仁、円珍他等の遣唐使、遣隋使が行き帰りに逗留した地域で、旧仏教が非常に強い地域性のあるところに、聖光は、元久元年(1204)四十三才で師法然(七十二才)の会下を辞し、旧仏教と対立しながら専修念仏の布教を開始したのである。ここに「聖淨兼学」「通仏教的鎮西念仏」の依って立つ特色があるようである。(『鎮西教学成立の歴史的背景』四十頁までの取意)
聖光六十五才のころ、京都では、嘉禄の法難(嘉禄三年)が起き、証空の上足である聖達、華台が難を避けて下向し、太宰府原山八坊内無量寺(四王院の別院、四王山東麓で太宰府天満宮を見下ろす景勝の旧地に無量寺跡の石碑あり)に住み、盛んに「三門」(行門、観門、弘願)を説いた。「三門」は法然が流罪赦免後の承元年間(1208~1210)に勝尾寺逗留中に残した究極他力の法門である。証空が九州に下って直接弘願義を弘通した記録は見当たらない。
ところが、聖光は「三門」について、「法然上人ハ仰セ候ハザリシコト」と批難して、彼が若いとき京都で相承した教義を布教した。彼は「三門」を弘願義と名付け邪義として、安貞二年(1228)十一月二十九日、肥後(熊本)の往生院で、「二十有の衆徒を結び、四十八の日夜を限りて別時の浄業を修し(中略)末代の疑いを決せんが為、未来の証に備えんが為に手印を以て証として筆記するところ左の如し」(自序)と認めた『末代念仏授手印』を造るに至るのである。
そのほか、聖光の著した『念仏名義集』(十二丁右)〔寛喜三年(1231)著、七十歳のとき〕には『選択集』撰述三十三年後の時点で、証空の「三門」を激烈に非難した後「故法然上人ハ手自(テズカ)ラ選択集ト申ス書ヲ造テ九条殿下ニ進セ給ヒテ候ナリ」と書き記している(*3)。また『念仏三心要集』(五丁左九行目より六丁右三行目)に「弟子弁阿弥陀仏は、故法然上人よりかくの如く種々に念仏の法門を受け伝えて候也。日本国の一切の人人を助け奉らんために、年七旬になりて最後の化導と存じて、ワナナク、ワナナクしるし置き候なり」と心中を吐露し、自分が相伝した法然の教義だけが法然の教説のすべてであると信じていたのである
『昭和新訂末代念仏授手印』(土川勧学宗学興隆会発行)の附録二頁に「(鎮西)国師の信条は、称名多念にあり、彼らの邪執は学問以先に在り国師は之を大師正流の反逆者、無道心無後世心者と糺弾し、這般の破邪顕正の為に、此の書を製作し給へるなり」とし、内容奥旨については、三頁九行に、「五正行、正助二業、三心、五念門、四修、三種行儀の六重二十二件五十五の法数を解釈せられたるなり。本意は、法数一行三昧に帰結す。白旗正流礼序の「口伝」なり。『伝心鈔』には、『往生礼賛』三心、五念門、四修を釈し、最後に『文殊般若経』を引いて「一行三昧に帰結」すると述べてある。(取意)
【三】『末代念仏授手印』裏書きについて
『末代念仏授手印』は軸物で、裏書というのは、一通り表面を書き終り、軸を裏返した裏面に書いてある。以下は、往生院本(聖護房伝承本)によってその一部を抄記するものである。
(法然)上人往生の後には、その義を水火に諍い、その義を蘭菊に致す、還って念仏の行を失し空しく浄土の業を廃す、悲しい哉、悲しい哉、何せん、何せん」と述べ、授手印の裏書きには、「なおなお、能く能く、これを録して、これを末代の人に送る」(中略)
「然るに近代の人人、学問を先と為してその称名をば物の員にせず。これすなわち邪義なり。邪執なり。無道心の人なり。無後世心なり。
近代の人人の義
- 一、ある人の云く、云々。(成覚房幸西(1163~1247)とその一門の安心門の義を指す)
- 二、ある人の云く、行門、観門、弘願門、この三門を立て、弘願門は往生を得、その行門の人は往生を得ず。弘願門の義を知らざるに依ってなり。これに依って、学文して能く能く弘願門に帰すべし。(証空の義)
- 三、ある人の云く、云々。(法本房行空(1144~1233)とその一門の寂光浄土義を指す)
この三人の義、近代興盛の義なり。 已上の三義、これ邪義なり。恐ろし恐ろし。(花押)
全く、これ法然上人の義には非ず。梵釈四王を以て証と仰ぎ奉る。(花押)
三の義ともに学文をせざる無智の僧達の愚案なり。驕慢、驕慢なり。
善導の御釈に相応せざる義なり。(花押)
以上『末代念仏授手印』の一節及び裏書を紹介した。ここで、二、の西山教義を指して、はっきりと「邪義」であると断じているが、このことに対し上田良準勧学は問題を提起された(*4)。
上田良凖勧学は《鎮西流宗学の初期の動向を窺う時、西山証空を邪義視する傾向のあったことは否めない。即ち、鎮西流祖聖光房弁長は、『末代念仏授手印』の裏書で云々》と証空の三門を批難する文を引用してから、《門弟良忠も『決答授手印疑問鈔』(上)において、法然上人の滅後、一念義が繁昌し、小坂(証空)弘願義が世に興り、人みな先師(法然)の遺誡に背いて、多くは念仏の行を廃するにいたったといい、
要するに証空は、鎮西流にとって、正潤(閏の誤植。天子の位で、正統とそうでない者を閏統という)を競うべきライバルあったのである。》と述べられた。
以上、「邪義」を巡る二つの資料を提示したが、確認をしておきたい事は、聖光房は、三門(行門、観門、弘願)について「西山証空の邪義」と決めつけていることである。
法然の行実はどうかというと、流罪から帰って勝尾寺に滞在中、飛躍的な思想進化を遂げ(日蓮の佐前、佐後の思想進化と酷似)、『選択集』で到達した「異類の助成・同類の助成・念仏一行」の教判論を更に発展させて、「自力行門・仏力観門・願力之念仏」という弘願他力理論を樹立した。すなわち法然は念仏三昧の証果を深め、勝尾寺で再度の廻心を遂げたのである。この思想が『醍醐本法然上人伝記』三心料簡(*5)、『述成』、私の発見した『輪円草』(*6)や『歎異抄』における全分他力を表明した「口伝」などに記されてある。
「三門」は流罪赦免後、法然が大阪箕面市の勝尾寺で、これ迄表明する事の無かった「他力信仰の真髄」を初めて、側近の弟子に残した「口伝」の一つであった。証空が講じ実信房が記載した『述成』(*7)にのこる「口伝」と勝尾寺でなされた「口伝」(勝尾寺の法門)は同じ内容であると『中外日報』(8)に報道して久しいが未だに反論はない。
また論文「証空の三門(行門、観門、弘願)は法然晩年の教説|法然が駆使した与奪門|」(9)に対する反論も六年近くを経過した現在皆無である。ということは、認められたと判断してもよいのではなかろうか。
聖光房弁長が「三門は西山証空の邪義」と『末代念仏授手印』裏書で自から書いたことは、彼の師匠・法然上人の最晩年の法門を知らずに難じたことになると云い得るのである。
(三)、法然の二度目の回心の契機
ところで法然が勝尾寺で何を根拠にして『選択集』撰述時期の「衆生の側の念仏」から「仏の側の念仏」へと飛躍したかというと、善導の『観念法門』に基づいていることが明らかになってきた。
近年、浄土宗西山深草派、宗学院研究生、湯谷祐義(祐三)氏は、平成十年夏、愛知県岡崎市菅生町、真宗高田派の古刹、満性寺虫干において『序分義聞書』なる古写本を発見した(*10)。その中に「三重之義」について興味深い記述がある。以下これを紹介する。(便宜上読み易くした)
◎総標行門事。行門と云うは、後の観門に対する語也。示観縁に云く、依下観門専心念仏と尺(釈)する時は観門と云へり。
法然上人之に依りて「三重之義」を弁じ給へり。「自力行門」「仏力観門」「願力三念仏」と述べ給、西山には、行、観、弘、と名目には使う、云々。
また、稲田順学師は最近、善導の『観念法門』(一六丁左)に、「三念願力」すなわち、「大誓願力・三昧定力・本功徳力」が説かれていることを指摘された。つまり法然は『選択集』撰述後に、自力行門・仏力観門と展開した後、『観念法門』に見える下記の文に注目したのである。
是れ「弥陀仏三念願力」外に加わるが故に、見仏せしむる事を得。三力と言っぱ即ち『般舟三昧経』に説きて云うが如し。
一には大誓願力を以て加念したまふ故に見仏を得。
二には三昧定力を以て加念したまふ故に見仏を得。
三には本功徳力を以て加念したまふ故に見仏を得。云々
法然はこの文章に導かれて、『選択集』四章段に展開されている衆生の側の念仏から、仏の側の念仏(絶対他力)へと達観的な一歩を進めたのだろう。
次に、右の有様を説明するような文が『深草鈔』(証空の弟子・円空講、顕意述)にあったので紹介する。『深草教学』十五号、八〇頁一一行目より参照。
問ふ。二尊の教より生ずる所の観の様、如何。
義に云はく、この義は今経の示観縁の中より出でたり。経に云はく、「以仏力故当得見彼清淨国土、如執明鏡自見面像」等と云々。この仏に二つ有り。一つには釈迦仏力、二つには弥陀仏力なり。釈迦仏力とは、即ち下の文の「諸仏如来、有異方便、令汝得見」云々。(中略)
その異方便とは、今の玄義の中には、「十三観以来尽名異方便」と云ふなり。『船舟讃』の中には、「定散倶迴入宝国、即是如来異方便」と云へり。(中略)これを釈迦の観とす。
次に弥陀仏力の観と云ふは、下の第十三観の中に、「然彼如来宿願力故有憶想者心得成就」と云々。(中略)『船舟経』の中にも「彼の仏(弥陀仏)の三念願力、冥に加して、見仏淨土三昧を得」と云へり。これを以てこれを思ふに、示観縁の「以仏力故当得見彼」の仏力も実には弥陀の願力に落居す。故に『観念法門』にこの文を引くに、「以仏願力故当得見彼」と云へり。その願力の観は、遍照の光明智相なり。その恵光と云ふは、即ち、阿弥陀仏の名号の義なり。
証空の弟子の円空は、『深草鈔』に、(師の証空はかねてより)「我が所流の法門は、専ら故上人(法然)相承の外に別の秘曲無し。但しその(一)「大旨」を得て、(二)「委細の料簡を加えた」ることは、わが稽古の功なり」と証空の常の言葉を記録している。便宜上一、二、と区分し解説を試みることにする。
一、「大旨」とは、「自力行門・仏力観門・願力三念仏(観念法門)」を指す。法然は、最晩年に勝尾寺でこの三重義を入室の弟子に説いた。
二、「委細の料簡を加えた」とするのは、行門、観門、弘願などの名目を駆使した『自筆鈔』や「光台密益説」のことと考えられる。証空の名目はすべて法然の意向を尊重しつつ『観経疏』から採用したものである。
深草派の記主顕意道教は、ここのところを『観経疏序分義揩定記』六に、「自力行門・仏力観門・願力念仏」の三重の義は、黒谷の名目であると述べている(*11)。
以上、法然の晩年に完成された新しい信仰は、「口伝」として正しく、法然|証空|円空|顕意と伝承されている事が確認できる。 上の文の概略をまとめて図示すると、(図1、2、3)のようになる。