研究論文アーカイブス/浄土宗西山深草派 宗学会
建礼門院に先を越された西行〔論文〕
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はじめに
筆者は先回の論文「建礼門院が往生した時と場所」において、建礼門院が文治四年(1188)の二月十五日か十六日に法性寺で往生したと結論した。そうすると西行が文治六年(1190)二月十六日に入滅したという有名な故事が想起される。しかも慈円は建礼門院と西行の二人を共によく知っていた。そして慈円が『平家物語』の成立に大きな役割を果たしたことは定説となっている。
そこで慈円を中心に据えて、建礼門院と西行の関係を歴史学的に明らかにし、ひいては「原平家物語」成立に新しい視座を提供したい。
本 論
一、慈円の『拾玉集(下)』(161ページ 和歌文学大系59明治書院)
便宜上5106番から5111番までの六首の和歌を5106番と5107番の二首Aと5108番から5111番までの四首Bの二つのグループに分ける。
【Aグループ】
円位上人無動寺へ登て、大乗院の放出(はなちで)に湖(うみ)を見やりて
5106番 | にほてるや凪(な)ぎたる朝に見わたせば漕ぎ行(ゆく)跡の浪だにもなし |
帰りなんとて、朝の事にて程(ほど)もありしに、「今は歌と申ことは思絶(おもひた)えたれど、結句をばこれにてこそつかうまつるべかりけれ」とて詠みたりしかば、たゞに過ぎがたくて和し侍(はべり)し | |
5107番 | ほのぼのと近江の海を漕ぐ舟の跡なき方(かた)に行(ゆく)心かな |
【Bグループ】
文治五年(1189)八月十五夜に、殿(兼実)の大納言(良経)の御許より
5108番 | 今宵(こよい)君おなじ心に月を見ば宿(やど)の気色を思(おもひ)知れかし(*1) |
5109番 | 訪(と)へかしな影を並べて昔見(み)し人もなき夜の月はいかにと故内府事思出てかくは詠たるなり返(かへ)しに |
5110番 | 心晴れぬ庵(いほ)はかひなし夜半(よは)の月曇(くも)らぬ宿を思ひやれども |
5111番 | いにしへの影なき宿に澄む月は心をやりて訪(と)ふと知らずや |
円位上人こと歌人・西行は比叡山無動寺検校である慈円を訪問した。このとき文治五年に西行は七二歳、慈円は三五歳であった。円位上人は比叡山の無動寺に登って、大乗院の琵琶湖の方に張り出した建物(放出(はなちで))から湖を見て、
にほてるや凪(な)ぎたる朝に見わたせば漕ぎ行(ゆく)跡の浪だにもなし
訳:近江の海の風が凪ぎた朝に湖面を見わたせば漕ぎ行く船の航跡もない
西行は帰ろうとしたが朝の事で時間があったので、「私は歌を詠むことを断念しましたが、最期の歌をここで詠むべきと存じます」といって詠んだので、私(慈円)もただ西行の詠歌を聞くだけで済ますことはできないと思って詠んだ。
ほのぼのと近江の海を漕ぐ舟の跡なき方(かた)に行(ゆく)心かな
訳:ほのかに琵琶湖を漕いでゆく船の航跡もない行方に心が惹かれます
【Bグループの現代語訳】
また、同年八月十五夜に兼実の息子・良経から、亡くなった兼実の長男・良通を回想して
今宵(こよい)君おなじ心に月を見ば宿(やど)の気色を思(おもひ)知れかし
訳:今宵、あなたが私と同じ気持ちで月を見られるのでしたら、私の気持ちをお察しくださる
ことでしょう
このように申しあげるに付けても、昔のことを思い出されることが多うございます。
訪(と)へかしな影を並べて昔見(み)し人もなき夜の月はいかにと
訳:昔、兄弟二人並んで月を見た兄がいない今夜の月は如何ですかと訊ねて
いただきたいものです。
といって私(慈円)に歌を詠んで送ってきた。
故内府(良通)の事を思出してこのように詠んだのである。
返(かへ)しに
心晴れぬ庵(いほ)はかひなし夜半(よは)の月曇(くも)らぬ宿を思ひやれども
訳:心が晴れない私が住む草庵はあなたの宿を照らす夜半の月が曇らなくても曇っているのです
いにしへの影(良通)なき宿に澄む月は心をやりて訪(と)ふと知らずや
訳:昔の人(良通)の面影もないあなたの宿を照らす澄んだ月の光はあなたの心を察して照らし
ているのですよ
の二首を返歌しました。
このAグループとBグループの二つのエピソードから、慈円と兼実の次男・良経が、兼実の長男・良通の急死の経緯を熟知していたことがわかる。そして彼らが良通の急死に先んじて建礼門院が往生し、大原来迎院の湛斅が建礼門院の臨終の善知識を勤めた事をも知っていたと考えられる。
だから慈円が西行に大乗院の放出(はなちで)で、建礼門院が法性寺において往生したことを語ったことは大いにあり得ると思われる。
二、西行の往生
次に目崎徳衛氏著【人物叢書『西行』】(吉川弘文館158ページ)を引用する。
文治五年(1189)半ばのころであろうか、西行は都を去って河内国(大阪府)の弘川寺に赴き、その山中に最後の草庵を結んだ。弘川寺は葛城山脈の西麓、観心・金剛両寺とほぼ正三角形をなす位置にある。葛城山は修験道の祖とされる役小角(えんのおづぬ)が住んだと伝えられる霊山で(『続日本紀』)、平安末期にも、熊野詣での往還に仰ぎみられる所から山臥修行の場として栄えていた。また念仏聖の集まる別所でもあったらしい。西行は高野山や所領田仲庄への道中に、しばしば立ち寄ったことがあると想像される。(中略)
建久元年(1190)二月十六日、西行は弘川寺の草庵で入滅した。草庵を結んで、わずかに数か月である。その最期は、俊成の『長秋詠藻』、慈円の『拾玉集』、定家の『拾遺愚草』、良経の『秋篠月清集』等にくわしく記されているが、ここには『長秋詠藻』を引く。
円位ひじりが歌どもを伊勢内宮の歌合とて判受け侍りし後、又同じき外宮の歌合とて思ふ心あり、新少将(定家)にかならず判してと申しければ、印付けて侍りける程に、その年(去年 文治五年〔1189〕)河内の弘川といふ山寺にてわづらふ事ありと聞きて、急ぎつかはしたりしかば、限りなく喜びつかはして後、すこしよろしくなりて年の果ての頃京に上りたりと申せし程に、二月十六日になむかくれ侍りける。
かの上人先年に桜の歌多く詠みけるなかに
ねがはくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ
かく詠みたりしを、をかしく見たまへし程に、つゐにきさらぎ十六日望日(もちのひ) 終りとげける事、いとあはれにありがたくおぼえて、ものに書きつけ侍る
ねがひおきし花の下にて終わりけり 蓮の上もたがはざるらん
慈円も定家も、俊成と同様に、西行が先年詠んだ「ねがはくは」の歌どおりに、最愛の花のさかりに満月の下で、釈迦の涅槃に従うごとき形で往生の素懐を果たしたことに、はげしく感動した。(以下略)
上記のように、建久元年(1190)二月十六日、草庵を結んで、わずか数か月後に、西行は弘川寺の草庵で入滅した。西行が建礼門院往生と同じ頃の二月十六日に入滅したことは偶然であったかも知れないが、西行の念頭に建礼門院の往生があったことは確かであろう。目崎徳衛氏が〔慈円も定家も、俊成と同様に、西行が先年詠んだ「ねがはくは」の歌どおりに、最愛の花のさかりに満月の下で、釈迦の涅槃に従うごとき形で往生の素懐を果たしたことに、はげしく感動した〕と述べられたが、西行が建礼門院の後を追って二月十六日に入滅したことを慈円が知っていたからこそ、激しく感動したのではないかと思われる。
三、遣迎院阿弥陀如来像内胎内文書の交名帖
次に建久五年(1194)に成立した「遣迎院阿弥陀如来像内胎内文書の交名帖」を研究する。(青木淳氏著『日文研叢書 第19集 遣迎院阿弥陀如来像像内納入品資料』)。
(④6)15行目、上から1番目に「中納言顕時」と記入されている。『尊卑分脉』第二篇、顕隆卿等孫(112ページ)に民部卿従二位権中納言、帥とあり、仁安二年(1167)三月十四日薨去、号中山中納言とある。したがって「中納言顕時」は過去者である。
顕時の嫡男・行隆は、平家物語で「行隆の沙汰」として語られている。しかし遣迎院胎内交名に「行隆」はない。けれども、行隆の嫡男・行房は(①9)第5行目、上から3段目、記入されている。
四男・行方は、(④6)の第15行目、上から2段目に、「中納言顕時」に続いて「左大弁行方」として記されている。
六男・覚顕は、(②3)の第11行目、上から10段目に結縁し、『尊卑分脉』では、号任心房・比叡山の僧として釣られている。
信空は(⑤3)の第11行目、上から5段目に「沙門信空」と結縁され、『尊卑分脉』第二篇で、「信空、法蓮上人、法然上人第一弟子」と注されている。
すなわち『平家物語』の作者といわれている「行長」の名は遣迎院阿弥陀如来胎内文書交名帖のなかに検出できないが、その兄弟の名が見つかるのである。「行長」の名前が『遣迎院交名帖』に出てこないわけは、行長が慈円の弟子であったから、法然の説法に結縁できなかったのであろう。
五味文彦氏は『平家物語、史と説話』(平凡社選書112、1987年)において、「原平家物語」が八条院と九条良輔に仕えて、出家後は慈円に扶持された藤原行長によって作られ、その場所は慈円が創立した大懺法院であったと論じられた。そして、行長の兄・摂津守行房が下野守源季広と知行国を交換して下野を知行した。それで弟の行長が下野守になったと考証された。
また、五味氏は次のように考えられた。すなわち、慈円は九条兼実の子息・良輔に多大の期待を持っていたが早世したので、落胆した。行長は良輔の教師であったから、行長は良輔の死に殉じて出家した。そして慈円は良輔が遺した領地で行長を扶持したのである。
四、行長の出家
慈円は『愚管抄』(岡見正雄・赤松俊秀 校注 岩波書店二六四ページ)において左のよう述べている。
慈円は主上・安徳天皇を抱いて海に入ったのは二位の尼と語っている。慈円が安徳天皇を抱いて入水したのは按察局であることを知りながら、意図的に二位の尼とすり替えていることは明らかである。だから慈円が主催して製作させた『原平家物語』を始めとしてすべての『平家物語』の諸本に二位の尼が安徳天皇を抱いて入水したと語られているのである。
次に五味文彦氏著『平家物語、史と説話』(平凡選書112/1987年)の第一章の「アプローチ」を引用する。
ここで『平家物語』に接近する手がかりとするのは『徒然草』二二六段である。『平家』の作者については幾つかの記録が伝えているが、この『徒然草』が一番古いものであり、最も『平家』の成立と時期が接している。とはいえ約百年の隔たりはあって、同時代の資料とは言えない。しかしそれでも『醍醐雑抄(だいござつしよう)』の「平家物語中山中納言顕時子息左衛門佐盛隆、其子民部権少輔時長作レ 之」という風な伝承や、『平家勘文録』の「六人の平家の作者」についての伝承と比較すれば、ずっと古く筋もよい。
筋がよい、というのは『徒然草』の作品の質と関係する。作者兼好の見る目は確かであり、その載せる説話もよく吟味されている。だからといって書かれたことをそのまま信ずることができると言うわけではない。精巧につくられた作品は精巧なだけに決して事実そのままではない。批評の目を通じて何らかの細工が施されているとみるべきである。ここでその説話をあげておこう。
そもそも説話を歴史資料として使う場合は、歴史的事実と対照させて説話がどの程度に事実を語り、また曲げているかを考えることが第一に必要な作業である。しかし歴史的事実なるものはそうそう簡単にとりだせるものではない。したがってまず行わなければならないのは、説話世界を垣間見て、そこに説話を位置づけ、その上でもって歴史的世界に据え直すといった仕事である。
さらに五味氏は「行長入道」(50ページ)において次のよう説かれた。
行長の名は建保元年(1213)以後の確かな記録にその名をみない。程なく出家したのであろう。
(中略)
人は何故出家するのか。多くの例は主人の死にあった時と教えてくれる。そこで注目されるのが行長の主人の良輔の早世である。良輔は建保六年(1218)十一月に三六歳の若さでなくなってしまった。慈円の『愚管抄』は次のように記している。
同年ノ冬ゴロ、世にモガサト云病ヲコリタリシヲ、大事ニハヅライテ、十一月十一日ニウセ給ニケリ、(中略)、一定我ハ死ナンズ、アヤシナガラ此ホドノ身ニナリ居タレバ、憂喜集門ト云事我ガ身ニアタレリト、死ナントテノ前日イハレケリ、
このように良輔の死を詳しく記したのは、慈円が良輔に大きな期待をかけていたからである。九条道家は、慈円と良輔とを「身一心」の仲と称した程であり、慈円は、良輔の死に大きな衝撃を受けたのであった 。
- 九条殿ノ子ニ良輔左大臣、日本国古今タグヒナキ学生ニテ、左大臣一ノ上ニテ朝ノ重宝カナト思タリキ(巻六)
- 左大臣良輔ハ漢才古今ニ比類ナシトマデ人ヲモイタリキ、卅五ニテ早世、カヤウノ人ドモノ若ジニヽテ世ノ中カヽルベシトハシラレヌ、アナカナシ(巻七)
と、慈円は二度にわたって良輔の死に触れ、落胆したことをのべている。慈円がいかに大きな期待を抱いていたかが知られるであろう。
(中略)
良輔も頼長と同じく広く学問の相手を求めたことであろうが、その最も身近な存在こそ幼少の頃から良輔に仕えていた行長であったろう。元久の詩歌合には、良輔とその師菅原為長、その学問の相手行長らがともに詩を提出している。
そして五味氏は良輔の急死に衝撃を受けた行長が出家を決意したと論じ、加えて良輔がなくなる少し前の建保六年(1218)六月三日に禁裏で行われた「白氏文集論議六番」(『百練抄』)での失敗が出家する決意を増強させたと推定された。また良輔の死によってその遺産が慈円に相続され、慈円が行長を扶持するための資産となったと考えられた。
そして五味氏は良輔の急死に衝撃を受けた行長が出家を決意したと論じ、加えて良輔がなくなる少し前の建保六年(1218)六月三日に禁裏で行われた「白氏文集論議六番」(『百練抄』)での失敗が出家する決意を増強させたと推定された。また良輔の死によってその遺産が慈円に相続され、慈円が行長を扶持するための資産となったと考えられた。
また、五味氏は慈円が大懺法院で、「仏法興隆」、「怨霊滅罪」「国土安穏」「天下之静謐」等を祈祷し、その時期は後鳥羽院の隠岐配流と後高倉院政の成立以降であると論じられた。そして行長の『平家物語』執筆の場はこの大懺法院であったと考えられた。
五味氏は「おわりに」において『徒然草』の『平家物語』は今日の我々が目にする『平家物語』の諸本ではなく、それらのもとになった所謂「原平家物語」であると強調された。
五、遣迎院阿弥陀如来像内交名帖に見られる法名「西行」と「生仏」
次に、『遣迎院阿弥陀如来像内交名帖』を見ると、「西行」および「生仏」が見いだされる。
「西行」
(③2)の2行目、上から5段目に「西行」が記されている。
(④7)の3行目、上から3段目に「西行」とある。
(⑥4)の1行目、上から1段目に「沙弥西行」が見つかる。
(⑥8)の27行目、上から7段目に、「尼西行」と記されている
建久五年頃、法然の信者として、「西行」、「尼西行」、「沙弥西行」と名乗った三人の聖がいた。このことは円位上人西行に憧れ、かってに自分の法名を西行と付けた人たちと思われる。
「沙弥生仏」
(②2)の16行目、上から7段目に「沙弥生仏」が記されている。
(⑦10)の21行目、上から3段目に「生仏尼」が発見される。
この男女二名の「生仏」のうち「沙弥生仏」が『徒然草』において『平家物語』を語ったとされる「生仏」であったかも知れない。しかし断定するには史料が乏しい。今後の課題である。
慈円が建礼門院が往生した時と場所を知っていながら、これを隠したわけを考えると、慈円は法然の教説が多くの人びとに信仰されたこと、特に実兄の九条兼実が法然に傾倒したことに天台座主として危機感を持ったことが動機であったと推定される。この問題に関しては今後、綿密に事実関係を明らかにすることが必要である。
おわりに
以上、『玉葉』および『拾玉集』『遣迎院阿弥陀如来胎内文書の交名帖』などの一次的史料をもちいて兼実と慈円の行実を調べてみると、兼実は建礼門院を九条邸で保護していた。慈円もそのことを承知していた。建礼門院が文治四年(1188)二月十五日か十六日に往生した。西行が比叡山の無動寺大乗院の放出でこのことを慈円から知らされた後、建久元年(1190)二月十六日に弘川寺の草庵の満月と桜の下で往生した。
慈円は安徳天皇の入水の真相を隠して行長に『原平家物語』を大懺法院で執筆させた。そのためすべての平家物語諸本において、安徳天皇は二位の尼に抱かれて海底に沈んだと語られているのである。これらの事実は五味文彦氏の『原平家物語』成立説と整合する。また、筆者は『原平家物語』の成立に関する限り、法然教団が深く関わっていると考える。
略年表
年 | 出来事 |
---|---|
文治四年(1188) |
仮説「二月一五日ころ建礼門院、往生する |
二月一九日、良通、心肺停止になる |
|
二月二〇日、九条兼実の長男・藤原良通死亡確定(『玉葉』)。 |
|
文治五年(1189) |
八月一日、法然、初めて兼実に授戒する(『玉葉』) |
この年の半ばころ、西行、弘川寺に草庵を結ぶ。 |
|
西行、比叡山の無動寺大乗院で、慈円と和歌の贈答をする(『拾玉集』)。 |
|
八月十五夜、良経、亡くなった兄・良通を回想した歌を慈円に送る(『拾玉集』)。 |
|
建久元年(1190) |
二月一六日、西行、弘川寺に入滅する(『長秋詠藻』)。 |
建久五年(1194) |
この年師秀説草成立。 |
『遣迎院阿弥陀如来像内文書』に「平氏中宮」と記載された(青木淳氏著『日文研叢書 第19集 遣迎院阿弥陀如来像像内納入品資料』)。 |
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