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建礼門院が往生した時と場所〔論文〕

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吉良 潤 (きら じゅん)

【筆者】 吉良 潤 (きら じゅん)

 

1936年(昭和11年)京都市に生まれる。
1962年(昭和37年)京都大学医学部を卒業する。
1972年(昭和47年)浄土宗西山深草派長仙院住職に就任する。
1990年(平成2年)同派宗学院教授、
2004年(平成16年)布教講習所教授、
2005年(平成17年)京都西山短期大学非常勤講師を経て、
2009年(平成21年)勧学を授与される。

 

 


 

 

はじめに


佐伯真一氏は『建礼門院という悲劇』(角川選書445、平成21年6月)を著わされた。 その「終章 その後の建礼門院」の一節〔建礼門院の最期をめぐって〕の中で、建礼門院が往生した時と場所に関して、定説がないことを明らかにされた。


この点に関して筆者は一つの新説を提唱したい。 それは「建礼門院は文治4年2月15日頃、九条兼実の九条邸で往生した」というものである。




本 論


(1) 建礼門院に関連する年表


まず最初に建礼門院に関連する略年表を掲げる。


久寿2年(1155)平徳子(たいらののりこ)生まれる。 『山槐記』治承2年(1178)6月28日条に、「御年廿四」とあるのに依る。
承安元年(1171)12月平徳子(17歳)、高倉天皇の女御となる。
承安2年(1172)2月平徳子、中宮となる。
治承2年(1178)11月中宮徳子、安徳天皇を生む。
治承4年(1180)5月以仁王、平家打倒の挙兵する。
8月源頼朝、伊豆で挙兵する。
治承五年(1181)正月14日高倉天皇崩御する。
養和元年(1181)11月25日中宮徳子、建礼門院の院号を宣下される。
閏2月4日清盛死去する。
養和2年(1182)2月8日大原の聖人(本成房湛斅、たんごう)が兼実の邸宅に来て、数刻、後世の事を語った(『玉葉』)。
寿永2年(1183)7月25日平家都落ちし、木曽義仲入京する。
8月20日後鳥羽天皇、践祚する。
8月21日大原の本成房が来て、兼実に数刻法文を談じた(『玉葉』)。
元暦元年(1184)9月15日夜、大原聖人本成房が来て、兼実と長時間法文を談じた(『玉葉』)。
元暦二年(1185)3月24日壇ノ浦の決戦で、平家壊滅する。 二位の尼(平時子、たいらのときこ)、安徳天皇水没する。 建礼門院、入水して引き上げられる。
4月27日建礼門院入洛する(『玉葉』4月26日条)。
4月28日京都に護送された建礼門院は吉田の律師・実憲の荒れ果てた坊に仮寓した。 実憲は東大寺の老僧であった(角田文衞著『王朝の明暗』「建礼門院の後半生」507ページ)。
5月1日建礼門院出家、戒師は大原の本成房湛斅(『吉記』5月1日条、髙橋秀樹編『新訂 吉記』本文編三、和泉書院)。
文治元年(1185)9月8日兼実、大原聖人(本成房)を請じ、受戒する(『玉葉』)。
9月末女院、大原の寂光院ほとりの草庵に移住する(『平家物語 延慶本』)。
文治2年(1186)4月25日大原聖人(本成房)来たり、兼実、大将(良通)、中将(良経)、女房(兼実の妻)、姫御前(任子)、受戒する(『玉葉』)。
4月下旬後白河法皇、お忍びで建礼門院を訪問する。
9月28日良通(大将)と女房ともに本成房に受戒する(『玉葉』)。
建礼門院、法性寺に隠棲する(『平家物語 延慶本』)。
文治三年(1187)2月1日源頼朝が平家から没収した領地のうちから、摂津国真井、鳥屋の両荘園を建礼門院に与えた(『吾妻鏡』)。
3月2日亥の刻、大原上人(本成房)が来て兼実に後世の勝因のことを語った。 兼実は末代に有り難い上人であると貴んだ(『玉葉』)。
文治四年(1188)2月15日頃建礼門院、往生する(仮説)
2月19日良通、心肺停止になる。
2月20日条兼実の長男・藤原良通死亡確定(『玉葉』)。
文治5年(1189)8月1日法然、初めて兼実に授戒する(『玉葉』)。
建久5年(1194)この年、『逆修説法』成立(〔『三部経大意』『逆修説法』『三経釈』『選択集』の成立順序〕『深草教学』第13号1993年所収)。
「平氏中宮」と『遣迎院阿弥陀如来像内文書』に記載されている(青木淳氏著『日文研叢書 第19集 遣迎院阿弥陀如来像像内納入品資料』)。


(2) 文治4年2月における九条家の取込み事の分析


九条兼実の『玉葉』(高橋禎一著『訓読玉葉』第7巻154ページ髙科書店)を抜粋・引用する。


文治4年2月17日(癸未)条、「伝へ聞く、兼光卿二男長親出家入道すと云々。 有情の人か。 感ずべく憐れむべし。

同18日(甲申)条、「夜に入り内府(良通)女房を相伴ひ来る。 所労この両三日例に復し、仍って来る所なり。 戌の刻(午後8時頃)法印(慈円)弟子等を率し来らる。 終夜聴聞す。 暁更法印帰られ了んぬ。 この夜この堂に宿す。 」

同19日(乙酉)条、「今日故殿の御忌日なり。 (中略)内府(良通)並びに尊忠法印等同じく簾中にありて聴聞す。 戌の刻(午後8時頃)女房相共に冷泉亭に帰る。 余、内府と同車す。 路間法華経比丘偈等を念誦す。 内府閑にこれを聞く。 冷泉に帰り車を下る。 内府女房の車を寄せんため、走りて北の車寄の方に向ふ。 即ち女房車を下りてこなたに来たる。 内府相具し来たり、数刻前にあり。 雑事を談ず。 意見を取り出し、相共に要事等を評定す。 亥の刻(午後10時頃)大原上人(本成房湛斅)来る。 仍って余これに謁す。 この間内府猶女房の前にあり。 子の刻(午前0時頃)に及びわが方に帰ると云々。 深更に及び上人帰り了んぬ。 余又寝に就き了んぬ。 小時ありて内府方の女房〔帥(そつ)〕周章(あわ)てて走り来たり、大臣殿、絶入(たえい)るの由を告ぐ。 余、劇速して行き向ひこれを見る。 身冷え気絶す。 一塵の憑み無し。 余、尊勝陀羅尼を誦し、傍にあり。 事已に一定、扶け救ふ、志のゆく所、所々に誦経を修す。 宝物廐馬等を諸社に献る。 又祭祓の如き雲霞の如くこれを修す。 又仏教体を始め奉り、即ち大原野の上人来る。 近辺にあるに依り招く所なり(この間女房暫く障子外に退く。 上人を招き入れんためなり)。 然れども事急に依り、已に秘計能はず。 只神咒を唱へ傍にあり。 これより先、智詮阿闍梨を召し遣はすと雖も、九条にあるに依り遅く来たる。 かくの如き間、天漸く曙け了んぬ。 終焉の体、罪業の人にあらざるか、面貌端正、仰いでこれに臥す。 これ善人の人相と云々。

20日(丙戌) 晴。 卯の刻(午前6時ごろ)に及び智詮来たり加持すと雖も、更に何の益あらんや。 閉眼の後二時(ふたとき、約4時間)を経て来たる所なり。 大凡(おおよそ)邪気のため絶入の人、仏法の威験に依り蘇生する、その例多しと雖も、今の有様絶入の儀にあらず。 如法の閉眼なり。 今に於ては百千万の総計及ぶ所あらず。 余及び女房この後神心迷乱し、万事覚えず。 この間訪はんため公卿已下済々来たると云々。 又山の法印(慈円)来たる。 この後の事敢へて以て覚悟せず。 (中略)事一定を見し後、余更に前後覚えず、数月を経て後、5月上中旬の比、且つ人々に問ひ、且つ側(ほのか)に思ひ出でて、今日以後の事等を記すなり。 二月二十日以後五月九日に到る、記録の筆を断ち了んぬ。 数月を経る後僅に以てこれを記す。 定めて謬る事等あらんか。

上に抜粋した『玉葉』の2月17、18、19日の九条兼実の身辺に起こった出来事を現代語訳する。


17日、九条兼実は、義顕(源義経のこと)の追討に関する院宣に対して源頼朝が異議を申し立てて来たことの朝廷側の対応を評議した。 兼実は一条能保に相談すべきであると考えた。

その日に藤原兼光の次男・長親が突然出家して入道となったと聞いてたいそう感銘を受けた。

18日、この日は九条兼実の父・忠通の祥月命日逮夜であった。 忠通は長寛2年(1164)2月19日に法性寺で薨去した。 それで法性寺入道前関白太政大臣ともいう。
兼実は早朝、後白河院に参上した。 源頼朝が源義経に対する朝廷の処遇に不満を申し入れてきたからである。 兼実は摂政として院において、前権大納言藤原兼雅、関東伝奏・藤原(吉田)経房、右兵衛督・日野兼光らと相談して、宣旨と院宣の両方を頼朝に下すのが適切であると指示した。

午の刻、棟範(むねのり)が参上したので宣旨の趣を命じた。 兼実は冷泉亭に帰り、子息の良通(内大臣)と同車して院に参内し、しばらくして兼実は九条邸に向かった。 今夜、二十五三昧を聴聞し、明日の遠忌を迎えるためである。 夜に入ると、良通が女房と相伴って来た。 所労が回復したからである。 戌の刻(午後8時ごろ)、法印(慈円)が弟子らを引率して来た。 みな終夜、聴聞した。 暁更に慈円は帰った。 兼実はこの法性寺の堂で宿泊した。

19日、故殿(忠通)の祥月命日の法要を営んだ。 導師は三井寺の権大僧都・慶智であった。 良通(内府)、尊忠法印(兼実の異母弟)らが簾中で聴聞した。 戌の刻(午後8時ごろ)、兼実は女房と一緒に冷泉亭に向かった。 そのとき兼実は良通と同じ車に乗った。 その間、兼実は法華経を念誦した。 良通は静かに聞いていた。 冷泉邸に帰着してから、兼実と良通は二人で雑談した。 重要なことは意見交換して、議論した。
亥の刻(夜10時ごろ)、大原上人(本成房湛斅)が冷泉亭に来たので謁見した。 良通は子の刻(午前0時)になって自分の邸に帰った。 大原上人は更に遅く深更に及んで帰った。 そして兼実は冷泉亭で就寝した。
暫くして良通の乳母で、良通が成人してからも、女房として良通に仕えていた藤原宗長の娘(帥局、そつのつぼね)が周章(あわ)てて走ってきて、内大臣殿(おとど、良通)が死んでおられますと告げた。 兼実が駆けつけた時、良通は既に冷たくなっていて、心肺停止状態であった。 大原上人湛斅が近くにいたので早く駆けつけた。 兼実は先に智詮阿闍梨を呼んだが、智詮は九条にいたので湛斅よりも遅く来た。 そうこうしているうちに夜が明けた。

20日、卯の刻(午前六時頃)になって智詮が来て加持したが、閉眼の後4時間も経って来たのだから、いまさら何の効果があろうか。 おおよそ邪気のため絶え入った人は仏法の威験により蘇生することは多いけれども、今のように絶入った場合は験はない。 良通は如法の閉眼なのだ。 今やあらゆる手段も効果がない。 余も女房もこの後精神混迷し、すべての事を覚えていない。 この間、弔問に訪れた公卿已下の人々が続々と来た。 また山の法印(慈円)も来た。 この後の事は全く覚えていない。 (中略)事が一段落してからは、余は更に前後不覚となった。 数か月後、5月上・中旬のころ、あるいは人々に問い、或いはぼんやり思い出して、今日以後の事等を記したのである。 2月20日から5月9日まで、記録の筆を断ってしまった。 数か月も経ってから、僅にこれを記したのである。 きっと間違えたことがあるだろう。 (後略)

そして兼実は良通がいかに親孝行であり、いかに学問に励んだか、いかに和歌や音楽の道に期待されたか、いかに人々から将来を属目されていたかを書き連ねた。 その最愛の長男が僅か22歳で夭折してしまった。 多賀宗隼氏は著書『玉葉索引』(吉川弘文館)の「解説」451ページにおいて、「文治4年2月20日の記に22歳の長男良通を喪った兼実の慟哭の文字は今日なおよむものの胸をうつものがある」と述べておられる。


湛斅は建礼門院の出家の戒師であり、臨終の善知識であり、智詮は藤原良通の護身僧であったと思われる。  文治4年(1188)2月17日から20日にかけて、九条兼実の身辺に見られた、5人の僧侶の出入りを分析する。


まず最初に、17日、兼実は日野兼光の次男長親が出家したことを人づてに聞いた。 長親は大原如連上人禪寂と呼ばれ、また法然の弟子であった(『尊卑文脈』第二篇235ページ)。 禪寂が出家したときの戒師は大原の本成房湛斅であった(『天台円教菩薩戒相承』)。



(3) 「遣迎院阿弥陀如来胎内文書交名帖」


ここで建久5年(1194)に成立した「遣迎院阿弥陀如来胎内文書交名帖」の(⑦2)の18行だけを抜粋する。


平氏中宮 藤良通 藤原成光 僧賴舜 アコ 中原行信 太郎


(⑦2)の18行目、上から1段目に「平氏中宮」と記入されている。 この人物は平清盛の娘で安徳天皇の母「建礼門院平徳子」である。


清盛の娘・平徳子が「平氏中宮」と記されていることは、建礼門院徳子が自らの意思で交名帖に記入させたものではなくて、建礼門院徳子の死後に、誰かが記入させたものであることを語っている。 何故なら、建礼門院が大原の本成房湛斅を戒師として出家したのは元暦2年(1185)5月1日のことであったから、もしも建礼門院が生存していて、自ら本成房湛斅から授けられた法名を記入させたとしたら、「真如覚」(『群書類従』第五輯「女院小伝」による)と記入したはずである。 したがって建礼門院徳子が建久5年には既になくなっていたと断定できる。


寿永2年(1183)7月、建礼門院徳子は安徳天皇をはじめ、平家一門とともに京都を脱出して西海に赴いた。 そののち後鳥羽天皇即位後、年官・年爵を停められた。 また「建礼門」という御所の門に因んだ女院号も停止されたのである。 だから「建礼門院」と書かずに「平氏中宮」と記入させた人物は、朝廷の儀式等に几帳面にこだわる九条兼実が第一候補であろう。


同じ行の上から2段目は「藤良通」と記入されている。 これは文治4年(1188)2月19日に急死した「藤原良通」のことである。 『尊卑分脉』(第一篇86ページ)も同じことを記している。


同じく上から3段目は「藤原成光」と記入されている。 この人物を捜すと、『尊卑分脉』(第二篇334ページ)に、(時長孫〔疋田〕)の「成光」が見つかる。 成光の生没に関する情報はないけれども、成光の兄・「以頼」は従五位下の左衛門尉であって、建永2年(1207)9月10日、73歳で死去している。 したがって、弟の成光が建久5年(1194)の「遣迎院阿弥陀如来胎内文書交名帖」に結縁したことは確かであろう。


また「藤原成光」の名は『鎌倉遺文』第三巻210ページ所載の元久元年(1204)12月4日に成立した「○一四九八 欣西書状(○大和興善寺阿弥陀像胎内文書)の(右裏)に、「藤原成光千返」という結縁交名が見つかる。 藤原成光が千返の念仏を称えて、興善寺の阿弥陀如来像造立に結縁したのである。 すなわち藤原成光は法然の信者である。 「遣迎院阿弥陀如来胎内文書交名帖」と「大和興善寺阿弥陀像胎内文書」の「藤原成光」は同一人物としてよいと云えよう。


次に、同じ行の上から4段目の「僧賴舜」は仁和寺法眼(良門孫)ではないかと思われる。
『鎌倉遺文』第八巻に、「○五五九五 賴舜書状」が収録されている。 京都東山御文庫記録壬九平範記仁安3年10月巻裏文書である。 この史料は有名であって早くから研究されている。 しかし、この手紙を書いた賴舜が「遣迎院阿弥陀如来胎内文書交名帖」に結縁していたこと、そして建礼門院と密接な関係にあることを論じた研究者はないようである。


また、九条兼実の嫡子・良通が急死したのは、先に述べたように、文治4年(1188)2月19日未明のことであった。 その良通の名が建久5年(1194)に成立した「遣迎院阿弥陀如来胎内文書交名帖」記載されていて、しかも藤(原)良通という俗名が「平氏中宮」の下に記入されている。 良通は内府すなわち内大臣であったから、良通は「前内大臣、さきのないだいじん」あるいは「前内府、さきのないふ」と記入されてもよいはずだが、諱「良通」とあるのは、父親の九条兼実自身の意向で記入されたことの証拠となる。


また、「平氏中宮」に続いて「藤良通」と記してあることは、「平氏中宮」と「藤原良通」が踵を接して「過去者」になったことを物語る。


更に興味深いことは、「遣迎院阿弥陀如来胎内文書交名帖」の(④6)の19行目の上から5段目に「藤原長親」があり、また(⑤3)の12行目の上から3番目に「沙門湛斅」が見つかるのである。 藤原長親は文治4年2月15日頃、湛斅を戒師として出家したと思われる。 するとその時の出家法名で結縁してもよいはずであるが、俗名に戻って結縁しているのである。 すなわち建久五年の時点では、湛斅の信者ではなくて、法然の信者になっていたのである。 そして建久5年の『逆修説法』の後で、改めて法然の弟子・禪寂となったようである。 法名「禪寂」自体は湛斅から授けられたものであるかも知れない。 湛斅も法然の教義を尊崇していたのであろう。



(4) 文治四年の建礼門院の往生と藤原(九条)良通の急死


文治4年2月17、18、19、20日の『玉葉』を分析する。


17日から20日の間に3人の僧侶が兼実の周辺に出入りしている。


その三人の僧侶の最初は、17日に兼実が噂にきいて感心した藤原兼光の次男長親出家入道の戒師である。 17日の条を見ても、兼光次男の出家以外のことはわからない。 そこで『尊卑分脉』第二篇「内麿公孫」235ページを見ると、兼光次男は「源空上人弟子、法名禪寂、大原如蓮上人、外山建立」と注記されている。


大橋俊雄氏著『法然上人事典』を見ると、長親は『七箇条制誡』に78人目に署名している。 初め長親が師事したのは大原の本成房湛斅であったが(『天台円教菩薩戒相承』)、いつ法然上人の門下になったかは明らかではない。 湛斅は大原問答にも参加した天台浄土教家である。 禪寂は鴨長明とも親交があり、著書に『月講式』一巻がある。 と述べておられる(以上抜粋)。 そうすると、建礼門院出家の戒師・湛斅を介して建礼門院と長親が九条兼実邸で繋がるのである。


本成房湛斅が兼実に請じられたのは、養和2年(1182)、寿永2年(1183)、元暦元年(1184)であった。 そして建礼門院が湛斅を戒師として出家したのは、元暦2年(1185)5月1日のことであった。 文治元年(1185)9月、兼実は湛斅を請じ、受戒した。 文治2年(1186)4月、兼実、良通、良経、兼実の妻、任子がそろって湛斅から受戒した。 同年9月、良通と妻が湛斅から受戒した。  そして文治3年(1187)2月1日、頼朝は平宗盛が知行していた摂津国真井・嶋屋の二つの荘園を建礼門院に与えた(『吾妻鏡』同日条)。 したがって文治3年2月の時点で建礼門院が生存していたことは確かである。 そして建久5年(1194)において建礼門院が過去者となっていたことも確かである。 だから建礼門院が亡くなったのはこの二つの時点の間にある。


文治四年2月17、18、19、20日の『玉葉』の記事において最も注目すべき動きをするのは大原の上人・本成房湛斅である。 兼実は17日に藤原兼光の次男・長親が出家入道したことを人づてに聞いた。 だから長親が出家したのは多分、15日または16日、あるいは17日であろう。 そして兼実の父・忠通の祥月命日の法要が終わって後、夜10時頃から夜更けまでの長い間、冷泉亭において湛斅と兼実は何事か不明であるけれども話し合った。 兼実の長男・良通が急病に襲われたのはその後であった。 兼実の家族の護身僧である智詮は九条邸の近くに居住していたので駆けつけるのに時間がかかった。 それに対して大原に居住しているはずの湛斅が直ぐに駆けつけることができたのは、このころ冷泉亭の近辺の里坊に居たからであろうと思われる。 つまり建礼門院出家の戒師である湛斅は法性寺に居た建礼門院が往生した際の臨終の善知識を勤めたと推定される。 そして長親は建礼門院に仕える家司であったから、その場で湛斅を戒師として出家入道したと考えられる。 湛斅の本坊は大原来迎院であったが、建礼門院を世話するためにこの頃、洛中の北部に居住していたのであろう。 したがって兼実の冷泉亭の近くに居たから良通の頓死の際に速やかに駆けつけたのである。


兼実が初めて法然を請じて受戒したのは文治5年(1189)8月1日である(『玉葉』)から、文治4年2月の事柄と法然は無関係である。


佐伯真一氏著『建礼門院という悲劇』の「建礼門院の最期をめぐって」(196ページ)によると、建礼門院が往生した時に関しては定説がなくて、三つの説がある。 すなわち、

  1. 建久2年(1191)2月中旬に極楽往生を遂げたという説(覚一本『平家物語』)
  2. 建保元年(建暦3年[1213])説(『皇代歴』『女院小伝』『華頂要略』『女院記』『紹運要略』)
  3. 貞応2年(1223)説(『平家物語』の延慶本・長門本・四部本)及び盛衰記の貞応3年(1224)説

である。


今回の研究からこれまでの説が何故、すべて正しくなかったのか、そのわけが明らかになってきた。 「原平家物語」の成立に関して新しい視座が登場したのである。 この事に関して次回の『建礼門院に先を越された西行』で論じる。




結 論


『一巻記』、『吉記』、『玉葉』そして『遣迎院阿弥陀如来胎内文書交名帖』などの一次的史料を用いて研究した結果、建礼門院徳子は身柄を九条兼実に引き取られていて、文治4年(1188)の2月15日か16日に法性寺で往生したという結論を得た。



 

 

 

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