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【筆者】 吉良 潤 (きら じゅん)
最近まで、ほとんどの研究者は、親鸞聖人の妻は恵信尼一人であったと考えていました。しかし、真宗大谷派の佐々木正氏が平成九年(1997)に『親鸞始記―隠された真実を読み解く―』著わされました。その中で佐々木氏は『親鸞聖人正明伝』は存覚の著書であると断定されました。そして、「明治以降の研究を一瞥しても、新しい親鸞像が描かれては消され、その繰り返しと蓄積の中で、親鸞研究はたしかに深化したかに見える。けれどもひとたび先人たちの、膨大な親鸞研究の森へと分け入ってみると、隔靴掻痒の読後感がのこるのである。(中略)ところが、『正明伝』を読みおえたあと、いつも残滓のように沈殿する読後感がどこを探しても見当たらなかったのである」と吐露されたのです。
山田文昭氏はかって『親鸞聖人正明伝』のある箇所を誤読されて、その結果『親鸞聖人正明伝』の価値を否定されました。そのため存覚著『親鸞聖人正明伝』は研究されなくなってしまいました。
ところが梅原猛氏は『親鸞始記』に掲載された『親鸞聖人正明伝』を読んで、山田文昭氏の誤読を発見されました。以来『親鸞聖人正明伝』の中で語られた親鸞聖人と玉日姫の結婚説話が歴史的事実であるとする研究が始まったのです。
梅原・佐々木両氏は玉日伝説が伝承されている寺院や遺跡をフィールド調査され、有力な物証を数々発見されました。そして最近、梅原氏は『親鸞「四つの謎」を解く』を上梓されたのです(2014年10月、新潮社)。
松尾剛次氏は『親鸞再考―僧にあらず、俗にあらず―』を出版された(NHKブックス2010)。そして玉日の実在性を肯定されました。
私たちも『深草教学』第21号(平成13年〔2001〕)において、〔「恵信尼は玉日に仕えた女房」「玉日実在説」の整合性〕を掲載しました。そして梅原氏の要請を受けて、積み重ねてきた研究をまとめて『親鸞は源頼朝の甥―親鸞先妻玉日実在説―』を出版しました(白馬社、2011年1月)。
平成25年(2013)2月21日、松尾剛次氏が『中外日報』の「論談」において、平成24年4月4日から13日まで、京都市埋蔵文化財研究所によって、西岸寺(京都市伏見区深草)玉日姫御廟所の修復に伴う発掘がなされたことの意義を論じられました。最初に平雅行氏が著書『歴史のなかに見る親鸞』(2001年4月、法藏館)において、「玉日実在説」を批判されたことに対して反論されました。そして次のように論じられました。
(前略)
発掘の結果、幕末の墓跡から、骨壺に転用された火消し壺と玉日姫の骨と考えられる火葬骨が発見された。さっそくパリノ・サーヴェイ株式会社(大阪市)に骨の検査を依頼し、その検査結果を得た。その結果は「頭蓋骨の破片が多く見られる」こと、「性別・年齢については、あまりにも小破片であったために特定することができなかった」。すなわち残念なことに、性別・年齢がわからないという。
また、カーボン14による年代鑑定も試みたが、火葬骨であるため、有機物が少なすぎて判明できなかった。それゆえ、この人骨自体からは、玉日姫の実在についてはっきりしたことはわからないが、江戸時代後期の改葬を経た墓地であることは確定した。
しかも、西岸寺関係の寺院(広島県の真光寺)には江戸時代の古文書が残されていて、その改葬の事情がわかる。玉日姫の墓は、真光寺文書や石碑の銘文により、九条家の支援を受けて本願寺法主の承認のもと、大阪で勧進を行い、嘉永五年(1852)3月に完了した大修復を受けていると考えられてきた。発掘成果はそれと一致しているのだ。とすれば、嘉永五年に玉日御廟の大規模な改葬がなされたことから、墓自体は幕末のものだが、骨は「玉日姫」のものとして納められたと考えられる。
以上、発掘と近世の古文書などによって、玉日姫の実在説に新たな史料が付加されたとはいえよう。
(後略)
以上、玉日姫の実在性に関して、歴史学的に強力な事項が加わったといえます。
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